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ハート学年の卒業 [教育]

 最後の年に入学してきたのがハート学年でした。その子どもたちが卒業するのです。
 いつもメソメソしていたRさん。6年生に連れられて登校していたH君。・・・・・思い出を手繰りたくて、『いちょう』№233号を開いてみた。いつものように顔写真があり、そこに将来の夢が語られていた。27人の顔は、大きく成長し、6年前の面影を残しているのは2,3人もいなかった。それでも、じっくり読んでいると、だんだんと名前と顔が一致してきて、思い出が甦ってきた。その度に小さな感動を覚え、体全体が温かくなってきた。
 よく見てみると、吹き出しで入学した頃抱いていた「なりたい人」について、筆跡も定まらない字で掲載されていた。ずうっと見ていった。そして何ということだろうか。Y君は「こうちょうせんせい」と書いているのではないですか!Y君にとっての校長先生とは、それはとりもなおさず「わたし」なのです。でもそのY君の今の夢は、「地震の研究家」になりたいのだそうです。・・・そう言えば、入学式は震災から1か月も経っていない4月8日でした。
 そんな子どもたちに会いたくて、18日(土)に卒業式に行ってきました。
 いつもの歌声、いつもの態度、そしていつもの空気に感動してうるうるすることしばしば。
 この頃は、子どもたちの姿に身が引き締められる思いです。
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せんせい [教育]

 講演会を誰にするか。この時期になると人選が始まる。T先生が重松清氏を推薦したのだが、あいにく読んでいなかった。本屋に行って数ある単行本の中から選んだ一冊が『先生』。それを東京出張電車の中で読み上げた。中は、6つの短編が載っている。先生方に是非読んでもらいたいと思ったものをあげてみよう。
 『ドロップスは神さまの涙』。優れた養護教諭というのは、ここに出てくる「ヒデおば」のような方なのだろう。かつては何処にでも居たような気がするが、今はどうなのだろう。子ども理解とは、目の前の事実の読み取りの積み重ねであるとつくづく思う。保健室は「もう一つの教室」なのである。
 『にんじん』。ニコライ・ハルトマンは、「子どもはそうであると思われている表象に従って自己を形成していく」と言う。教師からダメと思われた子どもは、その「ダメ」という刻印に向かっていくというのである。にんじんと名付けられた男子は、そんな子どもであった。20年後の回顧の中で先生は自戒するのだが、にんじんは成長していた。
 『泣くな赤鬼』。甲子園に行けなかった老監督の話。退部し退学した齋藤と10年後に出会ったとき、彼はがんの末期を迎えていた。監督が何度も彼を見舞い褒める。・・・・監督は変わった。勝つことしか考えていなかったあの頃、彼は齋藤を切り捨てていた。そして今、退部した奴、ケガで挫折した奴に心が向くようになり、その一方で勝てない監督になっていた。
 重松清作品の9割は、生徒と先生の関係を扱っている。
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珍?学習指導要領 [教育]

 新学習指導要領が新聞紙面に載っている。何だか見る気がしない。すると、遠目に「英語」と意外にも「尖閣列島」の文字が目に入った。
 「英語」のことはわかっているつもり、「尖閣」もわかっているのだが、なぜ、こうも大きく取り上げられているのか。あべ君の思いが透けて見えた。ちょっと読んでみたら、語調が強い。まるで外交方針を読んでいるようだ。
 領土には各国民の思いがある。まして、尖閣には日韓両国民の思いがあって今がある。我が国がかくかくしかじかの理由で領土というのはわかる。だったら、韓国はなぜこうまでして領土権を主張するのか。
 そんなことを含めて領土というものを考えるのが学問である。単一思想によって過ちを犯した国に、また同じような考え方が生まれ始めているように思える。
 理解もせずに威張るだけの頑固爺が想像される。双方の考え方に思いを馳せ、自らの考え方を構築していくのが学びというものではなかったのかい。
 学習指導要領としては片手落ち、こんな取り上げ方しかできない新聞も情けない。まだまだ文化国家じゃないのよ。懐が浅いのよ。

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グローバル化の進展? [教育]

 この頃、これまでフツウに使っていた「グローバル化の進展」という言葉が気になっている。これまでずうっと、素直に受け入れたまま、もう十数年になるだろう。だから、その進展に伴い求められる国際化や情報化への流れを当たり前ととらえてきたような気がする。
 こういうふうに考え始めたのも、よきにつけ悪しきにつけ、あのトランプさんのおかげ(せい)である。世界は、グローバル化によって労働は安きに流れ、かつての強国は錆びついていることを指摘した。一見、資本主義の末路にグローバル化を在らしめたのである。
 わたしも、いろいろな文章に、さも良きことのように、当然のことのように書いてきた。今、それは正しいことなのだろうかと振り返る。果たして、グローバル化は是か非か。そうまではいかなくとも、どうとらえるべきなのか。捉え方によっては教育の方向が変わっていくのではないか。果たして外国語として英語スタンダードなのか。今、世界が直面している「分断」や「不寛容」な世界も、その日影の部分としてみなければ読み解けないではないか。
 教育界では、今なお慣用句のように「グローバル化の進展に伴い」という言葉が目に付く。とても気になる。あなたたちはその進展についてどうとらえているのか。ひょっとしたら、突っかかりのないまま使っているのではないか。熟慮してもらいたい。
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分断の向こうに [教育]

 世界的な問題として「分断」が大きく浮上している。そして、その分断は、二極化された社会に「不寛容」を生み出している。
 例えば、300万円の車を高級と見る人がいれば、大衆車と見る人がいて、手の届かない高嶺の花と見る人がいる。それぞれの階層からあるものを見た時、同じものを見ていながら、とらえ方が違うのは当然である。ヒラリー派とトランプ派は、それぞれ考え方が次元的に違う人たちがそれぞれを支持したのだろう。とすれば、この分断は、アメリカに不寛容というきな臭い火種ができたと見てよいのかもしれない。
 ちょっと小さな話になる。かつて、文科省がコミュニティスクールを奨励したとき、今も同じらしいが、ことごとく逆らってきた記憶がある。簡単に言えば、いくら開かれた学校が標榜されようと、学校が外からこれ以上物言いされるのを当時は嫌っていたからである。
 ところがどうだろう。いじめ、自殺、体罰・・・とくれば、すべての責任を学校が背負わなければならないような風潮の中で、学校の外はすべてが正義派として物言いをするようになった。そろそろこの辺で、これらの問題は社会全体で社会に負ってもらうべきなのではないだろうか。そんな意味からも、今は、コミュニティ・スクールを進めるべきだと思う。
 変革の時代、大きな流れへの対応の仕方で、学校の立場が大きく変わる場合が考えられる。「学校」という文字で括れない「がっこう」と「ガッコウ」が生まれるようなものなのだが。教育行政は難しくなったのはその辺りに原因があるのかもしれない。社会を満足させることが難しくなり、信頼が揺らぎ、怒りや不満を募らせる人も出てくる。その中にはなんだか許しがたいことが起きたとでも言うように、大きな声をあげることで憂さを晴らしているような勘違いする人も出てくる。
 あるコトへの考え方の違いが、即分断となるわけではないだろう。違いを理解し合えれば寛容にもなれる。それには、今こそ、議論を尽くして結束する努力が求められている。

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東北連小山形大会に [教育]

 全連小山形大会から早いもので6年が経ち、来年度には東北大会が回ってきます。
 全国テーマが示す「新たな知」とはなんだろうか。このテーマは、7年前に調研部長をなされていた番町小校長の有馬先生が中心になってまとめられました。確かに、知識基盤社会やグローバル化の進展に伴う学びについて議論されたと記憶しています。
 すべてが急激に変化する社会、「新たな知」に変化はないのだろうか。日本人として何を為さねばならないのだろうか。番町小を訪れ、有馬さんと話し合ったことを思い出します。有馬さんは「足場」と言い、わたしは「立ち位置」と言いました。足場は「確固たるもの」の意味、立ち位置はまさに「いのちの軸」を想定していました。
 番町小からの帰りの電車で、「立ち位置確かに、足場を強く」の言葉が生まれました。それはそのまま全連小山形大会の合言葉になりました。
 来年は東北大会です。さびしいほどの少子化、大震災の傷癒されぬ今、脆弱になった社会基盤、・・・・こうした中で、「ふるさと」「地域」「絆」などをどうとらえて、どう教えていくのか、まさに教育の背柱に向けての問いです。しっかりと「いのちの軸」に位置付けて、校長先生たちが語り合い、いのち輝く教育にしてもらいたいと祈っています。

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教育とは「拾う」ことではないか [教育]

 「拾う」ということは、「捨てない」ことである。落ちているものを取り上げて手にしてやることである。
 校長は、先生方の「拾い」の事実を見届けているだろうか。頑張って難関校に受験しようとしている子ども、みんなが簡単というものだから「わからない」と言えなくなっている子ども、部活で弱点を補おうと助言が求められる子ども、通学途上性的嫌がらせを受けながら言えないでいる子ども、・・・・子どもが好きな先生方は、この「拾うこと」を懸命にやっているのだ。この具体を捉えることこそ校長の役割ではないのではないだろうか。
 年3回の面接が大変だと言う方がいる。大切だと思うならやりなさい。無意味と思ったら工夫すればよい。わたしは、必要な先生とだけしかやれないこともあった。必要のない先生とは「拾う」ことをマメにしている先生であり、わたしが全面的に信頼する先生である。それでも評価はみんな「3」である。
 そこで差をつけてどうする。校長のために能力の差はあれ、個々が自分の力を振り絞って子どもたちを「拾って」あげているならば、みんな「3」なのである。その校長も「3」なのである。当たり前のことを当たり前にしている人たちがもらうのが「3」なのである。チームとしてまとまっている意味での「3」なのである。教育には「3」が似合うのである。
 学力を上げることも、不登校を失くすことも、いじめを減らすことも、・・・・教育は、全部まとめて「拾う」というただ一念の地味な活動なのである。

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学力向上策サム・オブ・ゼン [教育]

 山形県で初めての中高一貫校として、「東桜学館」がスタートした。6年間を見通した受験指導ができることから、進学での実績が期待される。
 隣の宮城県では、平成22年度にスタートした二華高校がある。第二女子高を前身としながら男女共学にして生まれ変わった。今、東大への現役合格8名を出し、東北のトップに躍り出た。同様の動きは岩手県にもある。一関第一高校が中高一貫となり、東大現役合格を4名出した。
 すぐに結果を求めようとする雰囲気にはなるだろうが、焦る必要はない。結果は6年後に出せばよい。
 翻って大学、国公立への入学が厳しい。本県からの東北大への入学者は激減し、全県でも往時のY高の実績を下回るらしい。東北大自体が、関東・関西勢に東北勢は押されている。これは、東北の地域的課題である。
 さて山形大は?こちらは宮城県勢に押されている。人文・理学部に限れば、宮城県がトップとなっている。これは、本県の課題である。
 県内進学校に探究科と探究コースが新設された。効果が期待されるが、些かそんなお金のかけ方で事態が変わるとは思えない。根幹から変えるとすれば、実績を上げていた時代の指導への呪縛から離れ、今の入試への対応を急ぐことだ。センター試験の進歩に対する受験指導の対応の遅れを自覚することだ。
 そして、本気で取り組まなければならないのが「アクティブ・ラーニング」への対応である。特に、中高での真剣な取り組みが求められる。
 もう一つある。都会に負けない勉強は現実的環境的に難しい。されば、全人教育を強化することだ。例えば、都会の進学生に勉強量ではかなわないのだから、他のことで頑張ればよい。部活もいいだろう。ボランティアもよい。しかし、これら個人レベルでは後伸びに期待はできても都会には太刀打ちできない。例えば、公共交通機関内でのスマホを禁止して読書を奨励するとか、団体戦で挑んでみるのがよい筋だと思っている。いろんなアイデアを募ればよい。活性化事業第2段というのもある。

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せめて何を為すか? [教育]

 怖いのは、「しょうがないや」と現実を無意識のうちに肯定してしまっていることだと思う。
 口から出まかせの人気取りが多くなって、必ずと言っておきながら平気で何もしない。こんなことが繰り返されると、人は幻滅を感じ、厭世的なあきらめが生まれる。もはや大したことはできない世の中であると感じている人は少なくはないだろう。この大したことはできないという感覚の中に、本当は「せめて・・・」というものが見えてくるのではないだろうか。行革も財政改革、租税改革も「せめて何なのか」が問われていいのかもしれない。
 学校は、不登校で病み、いじめで悩み、不祥事で縮み上がっているように見える。そこに、道徳が教科化され、小学校では外国語活動が英語科へとランクアップされていくらしい。そんなに大したことに手を出してどうするのだろう。今の学校の状態は、そんなもの受け入れたとしても聞くほどに消化し切れるものとは思えない。
 せめて何をしなければならないのかが問われていない。それは、受け継がれてきた伝統と今ある現実から各校が考えるべきもので、一番大切にしていかなければならないことだ。
 いろんなことが打ち寄せてきて「大変だぁ~」で終わらせてはならないし、外圧だけで辟易してもらっては困る。脚下照顧、そこに「せめて~」があるはずだ。

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「とと姉ちゃん」に見る新たな知 [教育]

  『とと姉ちゃん』を見続けていると、ドラマを貫いているものが見えてくる。
 ここに出てくる人たちは、家族も含めて、人と人とがつながるために莫大な手間暇をかけている。そして自分の思いや考えを相手に伝えるために苦しみ悩んでいる。
 つながり・伝えることは難しいことだ。それでもそこで苦労した分、自分というものを高めていくことはそう難しくはない。みんなすくすくと成長しているではないか。そんな作成者の声が聞こえそうだ。

 今日、県連小校長会に出させてもらった。全連小が主題に「新たな知」を掲げ、分科会テーマには「知性」の文字が目を惹いた。静かに宣言文を傾聴してみた。そこに「新たな知」と思しきものを聞き取ることができなかった。厳しいかもしれないが、まだ「寄せ鍋原稿」であった。
 来年は、東北大会主管県である。「新たな知」とは何か。今日が本県としての答えを出す協議会になっただろうか。六教振の「つながり」から論理を構成していかなければならない。とすれば、古いようでまさに「とと姉ちゃん」はよいヒントを与えてくれているように思う。例をあげてみようか。
 親子であれ姉妹であれ、謝るときは膝を折り両手をついて詫びる。この「礼節」を学校教育で見直すべきである。また、小橋家には「家訓」がある。何を今さらと思うかもしれないが、今の社会も学校も家庭も、この背柱(バックボーン)を失ってしまった。学校は教育目標というかもしれない。でもそれは背柱ではない。背柱とは、歴史であり伝統であり、今ある子どもたちが体現しているものである。そして、大切にしているものであり、誇りにしているものである。
 わたしは、そこから「新たな知」について考えてみたい。
 
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