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引き際 [教育]

 50日程前、飛ぶ鳥を落とす勢いだった人が、自ら創りあげた組織の代表の座から、自ら降りました。これは「引退」ではありません。信頼して委ねられる次の人ができたようには見えないからです。彼女は、自ら築いた道を棄てたのです。敗者として、また一定の信託を得ながら、負託に応えないままの責任放棄という罪を背負いながら。
 つまり、「花道」を飾ることはできなかったのです。「排除します」と自制のない人間は、所詮、「花道」を歩くに相応しくありませんでした。「花道」とは自分では作れないものなのです。
 引き際とは難しいものですね。惜しまれて辞めるという美学に「花道」はあります。それが、ある地位に昇りつめてしまうと、自分が「一番」の存在だと勘違いされている方がいます。彼らは「代わる者がいない」と言いながら、本心では「やれるだけやろう」みたいな欲望に駆られているのです。そうした組織は硬直し、多様性は失われ、意欲と忠誠は形骸化します。
 「任期」は、そうした弊害を防ぐためにあるものです。
 60歳定年制という区切りの中で、わたしたち教員は引退します。そこには後継者が居て、去る者は感謝の中で「花道」を歩かせてもらいました。
 区切りが曖昧な世界で、「引き際」を考えたとき、首に鈴をつける人間がいないからこそ、そこに「自制」があるべきだと思います。切羽詰まった引退には、「花道」はありません。歩んできた道を「捨てる」だけなのです。
 
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教えたがり屋 [教育]

 時は幕末、貧乏御家人の別所彦四郎は、文武に秀でながら出世の道にしくじる。それでも懸命に生きる男の愚直な姿には感動を覚える。『憑神』(浅田次郎)である。その中で彦四郎は、孔子の「仁」について次のように話すところがある。
 “「イ」に「二」、すなわちたがいを慈しみ思いやる二人の心がけを、その文字は表している。おのれよりまず他者を気遣わねば、人の道は畜生道に堕つるのである。・・・・仁あるところに武士道の本義たる忠や恕も顕れる。”
 世の中には、これに欠ける人がいる。それでいて威張るから、面従腹背の関係が生まれる。校長先生と先生方や保護者との関係にも通じるように思った。
 職を離れて半年、硬軟あわせて十冊ほど読んだであろうか。テレビの「ビクトリア女王」に続く「クィーンメアリー2」に触発されてか『エリザベス』と『皇紀エリザベートの生涯』を読み、ちょっとは欧州の王朝に通じてきたような気がする。
 息抜きに読んだ百田尚樹の『モンスター』では、美人の見分け方を知った。鼻の頭と顎の先を線で結び、口が前に出ていたら「ブス」(日本人に多い)、一直線に並んだら「エスティティック・ライン」で、口が内側にあったら「ハリウッド・ライン」と言って、まちがいなく美人。個人的には、これをものさしに街を歩く楽しみが増えた。
 教師モノで有名な重松清『その日のまえに』には泣かされた。市に向かう中、日常というものがどんなに貴重なものであるかを知ることができる。
 もう一つ心がけているのが、読む時期を逸していた世界に挑んでいる。ヘッセの『知と愛』、カミュの『ペスト』、ラディゲの『肉体の悪魔』などである。翻訳物は読むに時間がかかる。その後に和ものを手にすると、それこそスラスラと読み進めることができる。一つ秘訣を知った。
 つまらないような毎日だが、豊かな日々である。何かをつかみかけると黙っておれない、わたしはつくづく「教えたがり屋」なのだと思う。
 
 
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附属校を強固にして守る [教育]

 附属校の行く末を案じながら、策を講じないまま、お上の御沙汰を待つというわけにはいきません。何ができるのか、知恵を出し合う時だと思っています。
 附属校には、大学と一体となって、教育実習校の役割があり、更に教員研修にも貢献する学校としての役割があり、これまでも実行されてきました。
 ところが、有識者会議の報告書を読んで感じることは、役割に大きな変化はないものの、トーンが上がっている上に、ニュアンスが違ってきているのではないかということです。
 一つは、「教員研修」です。意味するところは単発的な研修ではありませんね。「学び続ける教員」を支えるという意味合いが強まっています。つまり、県下の研修体系を担う程の貢献を求めているのてでしょうね。やはり、附属存続問題のキーワードは「貢献」のようです。
 貢献は頑張ればできるというものではありません。貢献できるだけの「力」が問われます。具体的には、附属校の教員自体のレベルアップの必要性と、それを可能にするサイクルをどう生み出していくかという問題に突き当たります。そして、教員研修に果たす役割については、県教委との話し合いが必要です。
 附属学校の教員の一定数が教職大学院で学ぶ、或いは大学の教授・准教授として学生を指導する流れを恒常化することを有識者会議は提示しています。実際、附属校に教職大学院修了者が赴任している流れが出てきています。入るならば出なければなりません。実務家教員を附属校が輩出していく流れができれば、まずは一つのサイクルが見えてきます。
 附属を必要と思って守るということは、附属を強固にしていく流れをつくることだと考えています。
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附属校は必要なのだが [教育]

 続編です。
 教員養成大学・学部には附属学校の設置が義務付けられており、国立大学附属学校の合計は、現在56大学の256校になっています。教員養成を目的とする教育学部が43都道府県44学部設置されているのに比べて数が多いことがわかります。
 これは、山形大学のように教員養成を目的とする学部を持たないまま附属学校を以前のまま設置している国立大学があることや小・中・高・特の附属を複数持っている大学があるからです。
 こうした附属について、有識者会議は、「在り方や役割の見直し」「大学との連携強化」「地域との連携推進」「成果の還元」といった4つの問題を取り上げています。
 つまり、教員養成大学・学部の改革は、附属学校も含めた強みや特色、社会的な役割等を明確化して進められようとしているわけです。
 山形大学は、この4つの問題については、ある程度のレベルで達成していると思うのですが、やはり気になるのが、山大が教育学部を持たないという弱みがあることです。それに、どれだけの県民が山大の教職課程を必要と思っているかが極めて重要なポイントになるのではないかと思っています。
 しかし、山大からの声が県民には入ってきません。先生方はどうお考えなのでしょうか。県教育委員会はどうなのでしょうか。深刻な状況は来なければよいのですが、それがやってきてからでは間に合いそうもありません。平成13年に持たれていた山大と県と山形市との話し合いが待たれます。
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教員養成はアカデミアの中で [教育]

 昨日に続くが、・・・
 平成16年、国立大学法人化によって、国の直轄を離れて運営が比較的自由になったものの、国からの運営費交付金が毎年約1%ずつ削減され、その不足分を、外部の研究費や寄付金など独自に賄う必要に迫られることになりました。
 とりわけ教員養成学部は、理工系などに比べて、多額の科学研究費や委託研究費を国や企業などから獲得することは難しく、単科の教育大学はもちろん、総合大学の中での教育学部も難しい局面に立たされているようです。大学全体が財源確保に悩んでいるのに、附属学校も含めて教員数が多くて人件費が掛かり、しかも「稼げない」教育学部は、他学部から白い目で見られ、肩身が狭い思いをしているのでしょう。山大の地域教育文化学部の立場は、この教員養成学部からも除外されていることから、おそらくもっと難しい立場にあることは想像するに難くありません。
 平成13年「在り方懇」は、教員合格率と教員になる学生が少ないことを問題にしました。文科省の指導もあったのでしょう。山大にも「ゼロ免」いわゆる教員を目指さないコースが生まれました。ところが教員採用率は低いままでしたから山大教育学部の存続は極めて難しく、平成16年に教育の香りを少しだけ残す地域教育文化学部に移行し、教員養成機能だけは保つというギリギリの決断をしました。いや、せざるを得なかったのだと思います。
 ところが今、教員養成を目的とする学部の範疇から除外されたまま、「稼げない」学部として、大学の「お荷物」として扱われ、ましてや有識者会議が対象とする学部ではないという決定的な事実によって、大変な事態が生まれようとしているのではないかというのがわたしの危惧です。
 この「やまがた」から、教員を養成する国立大学が消えてよいのでしょうか。これまで県下の研究実践を担ってきた附属校が消えてもよいのでしょうか。教員を養成することは、幼稚園の先生を育成するのとは違うのです。学部存続問題が話し合われた当時、知識人たちは小学校教員は「大教養人」であることを求めていました。
 当然、総合大学というアカデミアの中でこそ、教員養成は可能なのではないだろうか。

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教員養成の道への疑問 [教育]

 国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議の報告書(8/29)を先日読んだ。
 現在、国大には教員養成を目的とする教育学部が43都道府県に44学部ある。内訳は単科大学が11大学、総合大学に33学部となっている。平成13年、通称「在り方懇報告書」によって、平成16年度に大学が法人化されたのを機に山形大学は、ぎりぎりのせめぎあいの中で地域教育文化学部に移行し、教職課程を残しつつ、学部としては教員養成目的という看板を降ろしている。それでも平成21年度に教職大学院を設置するなど、本県教育を支える楽譜としての役割を果たしてきた。
 そして、平成28年度からの国立大学の第3期中期目標期間が始まり、各国立教員養成大学・学部の改革が進められている。ところが、当の教員養成目的という看板を下ろした山大にはこれに該当しないと考えるのが筋である。当時、山大と同じ道を歩んだのは、福島大学と富山大学であった。この3大学が改革の波から除外されているのではないか。ところが、県内にはそうした不安の声は聞かれない。だから余計心配される。
 今しがたSさんのメールで一昨日の朝日新聞に掲載された東北の大学の広告に目をやった。元々は、Yさんの記事が福祉大に載っているとのメールだった。ところが、新たな現実が右の東北学院大学の広告にあった。「英語の指導力に自信 小学校教員の養成も」の見出しが躍り、小学校教員養成課程が明確に謳われていた。
 宮教があって、更にここにも。最近全国的な動きの中で、私立大学での小学校教員養成が勢いを増している。国大から私大への移行なのだろうか。だとしても、なぜそれかを行うのか、どんなプロセスで決まったのか、わからない。教員養成に関する全体的な動きと、こうした会議報告書との方向が乖離しているようにしか思えないのだが。
 このように国民に分からないような形で進められることに納得がいかない。
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いじめ32万件に思う [教育]

 文科省の調査によると、昨年度に全国の学校で約32万件のいじめが把握された。この把握件数は、いじめの定義が変わると増加し、その後減少するという傾向をこの30年間繰り返している。
元々は「自分より弱い者に対して一方的に攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じるもの」だった。06年度に「一方的に」「継続的に」「深刻な」が削られ、13年度には「攻撃」が「影響を与える行為」に変わった。
 そういう意味では、定義が広がり、小さないざこざでも見逃すなという姿勢が読み取れる。いじめは早期対応が絶対であり、この兆しを見逃すまいとする姿勢は大切であろう。
 ただ、把握することに軸足が移り、本来は「いじめゼロ」をめざすものだったものが「見逃しゼロ」に軸足が移っているような感じがする点に心配がある。
 学校が重大な事案を抱えた場合、多大な労力を費やして解決を図らなければならないことは、学校に身を置いたものであれば、痛い程わかる。この際、軽重や深刻度の見極めが大切であり、そこに学校としての組織・体制、教職員間のコミュニケーション、校長等管理職のリーダーシップ、そして日ごろからの保護者との連携が問われてくる。
 実は、肝心なのは、把握に努めるだけでストップしない、これらの探知機能を磨いておくことではないだろうか。重大な事案を見誤ることのない体制づくりである。
 来年度から、この把握件数がまた現象し続けていくとしたら、4度目の轍を踏むことになる。
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質素なだけで貧しくはない [教育]

 「教職」にあったことを時に振り返り、そこに誇りを感じている。これは、お金で買えるようなモノではない。38年間、人生の大切な時間すべてを賭けて、やっと手にしたものである。
 教員としての生活は質素だったように思う。それでも貧しいなどと思ったことはない。質素なだけで貧しくはなく、心は満たされていた。幸せだった。
 第二の職場には5年間お世話になった。はじめは給料がもらえて、そのお金で生活していることの実感があった。しかし、人生という貴重な時間を費やすほどのこともない毎日・・・と思うようになった。
 無職となって半年になった。はじめは為すことのない時間を持て余し、いささか軸のない人間になってしまったような心境に陥った。命をかけた38年間は何も考える間もなく走りすぎ、やっと、自分を振り返るべき時間が来た時、給料仕事に身を委ねてしまった。
 今は、いろいろな方にお世話になったのだから、自分のできる範囲で役に立ちたいと思っている。相手のことを考えて、丁寧に、時間をかけて取り組んでいる。
 昨日、鷲田清一氏の「折々のことば」に、ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領の言葉を見つけた。
 “わたしが思う「貧しい人」とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ”
 
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無償化よりも「質」 [教育]

 幼児教育や高校授業料の無償化などの公約を掲げる党首が3人いた。しかも財政再建に回す約束を反故にして、消費税をそれに使うことを問うための解散だとしている。
 選挙受けのよい話にしか聞こえない。多様化する幼児教育、自由遊びから英語教育、スポーツ重視と選択の幅は広い。当然、内容に応じて学費にも幅がある。それは高校教育にも通じる。無償化は容易いことではない。
 問題は「教育の質」にあることは誰も疑わないのではないか。まず、教員の質の向上。数合わせからいい加減脱却して、子ども減による浮いたお金を待遇改善に回せないだろうか。次に、多忙化解消。実態は各種調査から明らかだが、あらゆる教育問題を学校にお仕着せる社会、学校任せで子どもをいっちょまえにする機能を失った地域そして家庭等、先生方の肩の荷を軽くしようとする動きがまったく起きてこない。学校負担は重くなるばかりである。睡眠を減らし、子どものためにと家庭を犠牲にしてまで働く。そして40年近く学校に身を置いた先生方の多くは、世間を知らないことに気付き、社会で自分で生きていくための諸手続きに苦労している姿をずうっと見てきた。
 コーラスの練習が終わるのが午後9時。某小学校の体育館から中学校のバレー部員が降りてくる。うわべの多忙化解消によって、こんな事態が起きているのはここだけではあるまい。夜遅くまで頑張ることの価値をまったく否定するつもりはない。声高な強硬論は、それに慎重論を唱える者の声に耳を貸さない。だから何も変わらないどころか、悪化の道を進んでいる。犠牲になっているのは、いつも子どもと先生である。疲れ、そして多忙はあらゆる教育の質を低下させている
 何からでもよいだろう。本腰で「質」の問題に取り組んでもらいたい。
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夕暮れの運動着 [教育]

 めっきり日が暮れるのが早くなった。その中を部活を終えた中学生が「運動着のまま」帰宅している。ずうっと前から気になっていた。
 だらしない身なりは行動にも影響しているように見える。一生のうちで輝かしくも瑞々しく、最も可愛らしい時代、人間として個人として自らが判断し、自らを形成していくに大切な時代、考え判断することなく、無造作な身なりが当たり前のように在る。これで文化国家なのだろうか。
 何を言うのだと言われるかもしれませんが、これを真剣に考えていかないと、個人としての「アイディンティティ」の確立、「インディビジュアル」な存在という根源的問題に行きつかない。
 
 本来、人間同士の「つながり」には、集団や組織としての規律や統制はついて回るものである。よい意味では「絆(きずな)」が生まれるが、それに束縛を感じたら「絆(ほだし)」になる。「つながり」にはほど良い自由が必要なのだろう。
 自由というのは、とても耳障りが良いものである。しかし、自由は小さくて弱くて見えにくいものを無視して、ある種の際立つものが横行する場合がある。古い例にルーズソックスがある。自由の中に造られていく「柵」である。人間の悪い習性としての「内と外に分ける」ものである。
 つながり社会に生きるには、個人としての輪郭が求められる。この「個の確立」によって、バラバラではなく、散らばりでもない多様性はつながるのだろうと考えている。
 運動着で帰宅するのをやめるか、そのままにするか、判断の問題ではない。それが問える教育が子どもたちに施されていることが前提にある。「つながり」には、人間同士の調和的イメージがある。それもあるが、本当は、ゴツゴツした個性のぶつかり合い、個々独立した生き方、いわゆる「個の確立」がもっと大事なことなのだと思う。
 この問題をアウフヘーベンしていくと、「制服の在り方」を考えていくことになるのではないだろうか。20年、30年先を考えていかないとね。

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