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いじめ32万件に思う [教育]

 文科省の調査によると、昨年度に全国の学校で約32万件のいじめが把握された。この把握件数は、いじめの定義が変わると増加し、その後減少するという傾向をこの30年間繰り返している。
元々は「自分より弱い者に対して一方的に攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じるもの」だった。06年度に「一方的に」「継続的に」「深刻な」が削られ、13年度には「攻撃」が「影響を与える行為」に変わった。
 そういう意味では、定義が広がり、小さないざこざでも見逃すなという姿勢が読み取れる。いじめは早期対応が絶対であり、この兆しを見逃すまいとする姿勢は大切であろう。
 ただ、把握することに軸足が移り、本来は「いじめゼロ」をめざすものだったものが「見逃しゼロ」に軸足が移っているような感じがする点に心配がある。
 学校が重大な事案を抱えた場合、多大な労力を費やして解決を図らなければならないことは、学校に身を置いたものであれば、痛い程わかる。この際、軽重や深刻度の見極めが大切であり、そこに学校としての組織・体制、教職員間のコミュニケーション、校長等管理職のリーダーシップ、そして日ごろからの保護者との連携が問われてくる。
 実は、肝心なのは、把握に努めるだけでストップしない、これらの探知機能を磨いておくことではないだろうか。重大な事案を見誤ることのない体制づくりである。
 来年度から、この把握件数がまた現象し続けていくとしたら、4度目の轍を踏むことになる。
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質素なだけで貧しくはない [教育]

 「教職」にあったことを時に振り返り、そこに誇りを感じている。これは、お金で買えるようなモノではない。38年間、人生の大切な時間すべてを賭けて、やっと手にしたものである。
 教員としての生活は質素だったように思う。それでも貧しいなどと思ったことはない。質素なだけで貧しくはなく、心は満たされていた。幸せだった。
 第二の職場には5年間お世話になった。はじめは給料がもらえて、そのお金で生活していることの実感があった。しかし、人生という貴重な時間を費やすほどのこともない毎日・・・と思うようになった。
 無職となって半年になった。はじめは為すことのない時間を持て余し、いささか軸のない人間になってしまったような心境に陥った。命をかけた38年間は何も考える間もなく走りすぎ、やっと、自分を振り返るべき時間が来た時、給料仕事に身を委ねてしまった。
 今は、いろいろな方にお世話になったのだから、自分のできる範囲で役に立ちたいと思っている。相手のことを考えて、丁寧に、時間をかけて取り組んでいる。
 昨日、鷲田清一氏の「折々のことば」に、ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領の言葉を見つけた。
 “わたしが思う「貧しい人」とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ”
 
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無償化よりも「質」 [教育]

 幼児教育や高校授業料の無償化などの公約を掲げる党首が3人いた。しかも財政再建に回す約束を反故にして、消費税をそれに使うことを問うための解散だとしている。
 選挙受けのよい話にしか聞こえない。多様化する幼児教育、自由遊びから英語教育、スポーツ重視と選択の幅は広い。当然、内容に応じて学費にも幅がある。それは高校教育にも通じる。無償化は容易いことではない。
 問題は「教育の質」にあることは誰も疑わないのではないか。まず、教員の質の向上。数合わせからいい加減脱却して、子ども減による浮いたお金を待遇改善に回せないだろうか。次に、多忙化解消。実態は各種調査から明らかだが、あらゆる教育問題を学校にお仕着せる社会、学校任せで子どもをいっちょまえにする機能を失った地域そして家庭等、先生方の肩の荷を軽くしようとする動きがまったく起きてこない。学校負担は重くなるばかりである。睡眠を減らし、子どものためにと家庭を犠牲にしてまで働く。そして40年近く学校に身を置いた先生方の多くは、世間を知らないことに気付き、社会で自分で生きていくための諸手続きに苦労している姿をずうっと見てきた。
 コーラスの練習が終わるのが午後9時。某小学校の体育館から中学校のバレー部員が降りてくる。うわべの多忙化解消によって、こんな事態が起きているのはここだけではあるまい。夜遅くまで頑張ることの価値をまったく否定するつもりはない。声高な強硬論は、それに慎重論を唱える者の声に耳を貸さない。だから何も変わらないどころか、悪化の道を進んでいる。犠牲になっているのは、いつも子どもと先生である。疲れ、そして多忙はあらゆる教育の質を低下させている
 何からでもよいだろう。本腰で「質」の問題に取り組んでもらいたい。
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夕暮れの運動着 [教育]

 めっきり日が暮れるのが早くなった。その中を部活を終えた中学生が「運動着のまま」帰宅している。ずうっと前から気になっていた。
 だらしない身なりは行動にも影響しているように見える。一生のうちで輝かしくも瑞々しく、最も可愛らしい時代、人間として個人として自らが判断し、自らを形成していくに大切な時代、考え判断することなく、無造作な身なりが当たり前のように在る。これで文化国家なのだろうか。
 何を言うのだと言われるかもしれませんが、これを真剣に考えていかないと、個人としての「アイディンティティ」の確立、「インディビジュアル」な存在という根源的問題に行きつかない。
 
 本来、人間同士の「つながり」には、集団や組織としての規律や統制はついて回るものである。よい意味では「絆(きずな)」が生まれるが、それに束縛を感じたら「絆(ほだし)」になる。「つながり」にはほど良い自由が必要なのだろう。
 自由というのは、とても耳障りが良いものである。しかし、自由は小さくて弱くて見えにくいものを無視して、ある種の際立つものが横行する場合がある。古い例にルーズソックスがある。自由の中に造られていく「柵」である。人間の悪い習性としての「内と外に分ける」ものである。
 つながり社会に生きるには、個人としての輪郭が求められる。この「個の確立」によって、バラバラではなく、散らばりでもない多様性はつながるのだろうと考えている。
 運動着で帰宅するのをやめるか、そのままにするか、判断の問題ではない。それが問える教育が子どもたちに施されていることが前提にある。「つながり」には、人間同士の調和的イメージがある。それもあるが、本当は、ゴツゴツした個性のぶつかり合い、個々独立した生き方、いわゆる「個の確立」がもっと大事なことなのだと思う。
 この問題をアウフヘーベンしていくと、「制服の在り方」を考えていくことになるのではないだろうか。20年、30年先を考えていかないとね。

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教育で今、考えておきたいこと [教育]

 時間がゆったりと流れているように感じた。廊下には以前と同じように生徒たちの生き生きとした写真が掲示されている。暗く感じたのは、不必要な電灯が消されていたからだ。
 校長室で、校長さんは忙しいだろうに、今、ご自身がとらえておられる教育に関する話題を出してくれた。久しぶりに教育というものについて対話する楽しい時間となった。
 「いのち」の次は何?一つは「地域」ではないか。昨日取り上げた「社会のために役立つ人間を育てる」という観点がある。つながりによる共生的な生き方を創造していくというのもある。とにかく、10年来取り上げてきた多様な「いのち」を、アウフヘーベンしていく時期に来ている。
 「インディビジュアルな人間の育成」をずうっと考えてきた。自ら考え自ら時代を切り拓いて生きていく子どもである。研究主題ベースではなく、なまの生き方としての能力形成である。校長は、全校朝会を「現地集合・現地解散」とした。教室から一糸乱れぬ列をなして体育館に向かい帰るという従来の価値観の転換である。自分で向かえば朝会を能動的にとらえる姿勢が生まれる。友だちと校長の話を振り返りながら談笑して教室に帰る姿が生まれていると言う。そして、何よりも、あくせくと忙しさに追われている生徒たちの心が一時解放される時間が生まれる。わたしたちは、児童生徒を本質的には信頼していないのかもしれない。なぜ部活の帰りに運動着姿で帰宅させるのだろうか。みずみずしくも輝く時代に制服と緩んだ運動着で過ごすことの意味は規律統制以外にはない。インディビジュアルな生き方は、自由を伴い、慣れていない子どもたちは、自ずと統制に向かう可能性がある。あのルーズソックスのようにブームが起きるのである。そして、こうした話題が取り上げられる度に「制服は経済的だ」など別の問題に転嫁されて、本質的なインディビジュアルの形成はどこかに行ってしまう。だから、取り組んでもらいたい。
 危機管理と安全教育、自然災害は予測ができて到来するまでの間がある。だが、前代未聞のミサイルは、今までとは違う。教育委員会の指示待ちではミサイルは通り過ぎてしまう。連絡網による電話ではむしろ混乱を招く。緊急速報が鳴ったら各家庭の判断である。「自宅待機」は学校の決まりでなければならない。校外学習に出ている学級では先生が指示しなければならない。結局は誰も頼ることなどできないのだから、責任は限りなく自己に近づいている。危機管理とは危機回避に対する自己責任行動なのである。学校と家庭とのそれぞれの責任領域が話し合わなければならない。
 「今」に真摯に取り組んでくると「変化」は見えてくるものなのだろう。
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創立記念日から [教育]

 今日は、四小の創立記念日です。
 新しくなられたY同窓会長さんは、祝辞の中で、小学校時代の恩師から創立記念日に、「大きくなったら社会のために・・・」と教えていただいたこと、さらに、この学区には、市役所や裁判所、2つの銀行の本店と放送局・新聞社があることから山形市はもとより山形県の真ん中であることを伝え、何人かの卒業生を例に挙げられ「山形市のために、山形県のために、そして日本のために、何かよいことができる人間になってほしい。」と語っておられました。
 とても大事なことです。自ずと教職員席に目をやりました。そして、「これを意識しているか、いないか」で教育の意味が大きく違うことを告げたいような衝動にかられました。
 社会のために尽くす人間は、社会の中で育ちます。だから、学校も学級も「一つの社会」でなければなりません。諍いもあれば権力闘争もあり、嘘やごまかしもあれば正義もある。臆病になるときもあれば、勇気を奮い立たせる時だってある。それでも、みんなで一つのことを仕上げていく喜びと、その過程の苦しみを体験することに大きな意味があるのです。
 その社会を意識する教育に「総合」があり、四小は常に妥協のない総合を展開し、地域はそれに賛辞を送ってきたのだと思い返したところでした。
 今日は、わたしの66歳の誕生日です。天気も心も晴れやかに。
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「安定」こそ [教育]

 戦後初代のアデナウアーが14年、東西統一を成したコールが16年、そして、メルケルも12年が経過しています。ドイツの歴代首相の話です。比べて日本、調べてみたら現在で36回変わっています。驚きですね。
 「安定」が何よりも重要な価値観であるという意味では、学校も似ているのではないかと思います。安定は、子どもと先生方を冷静にして安心させるからです。決して、年数が長ければ安定するというわけではありませんが、大切な視点を見落とすことはできません。
 国も学校も経営という点では、長いスパンで何が良いのか。何を今すべきなのかを考えることができる、答えが出るまで待つことができるというのは大変な利点だと思うのです。
 前任者の鐘の音が止むのを待たずに、改革の鐘を高らかに鳴らしてヒンシュクを買う方がいれば、相手が弱っている今がチャンスとばかり解散する愚挙に出る方もいる。
 ドイツにメルケルさんを見習わなければ、今、トランプ氏に堂々と渡り合えているのは彼女だけのような気がします。
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信頼されている学校 [教育]

 大阪商業大学のJGSS(日本版総合的社会調査)では、社会に影響をもつ組織に対する信頼感を、2000年から15年まで10回調査しています。
 その結果によると、「病院」が90%前後、「学校」は70~80%台、「学者・研究者」は凡そ70%、「中央官庁」と「労組」は40~50%、「国会議員」は50%以下となっています。
 意識としては叩かれっぱなしのように思える「学校」への信頼が、まだ高いことに胸を撫で下ろしています。信頼度45%の市町村議員を含め、政治家たちにとやかく言われたくはないですね。
 「信頼」と「信用」との違いについて調べたことがありました。信頼というのは、「裏切り覚悟の信用である」という結論だったように思います。ですから、先生方は、裏切られても付いてきてくださる多くの人々がいることを踏まえて、常に謙虚に、真摯に教育に当たらなければなりません。この数字は、概ねそれが認められているということではないでしょうか。
 政治家は、国民から選挙によって選ばれます。自分たちが選んでおきながらこの数値はなんだ!と思えるのですが、そもそも国民は「信頼」しているのではなく、一時的に「信用」しただけで、今の政治家の裏切りが許せないのです。
 信頼される学校、大切にしなければなりません。
 
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学力問題 [教育]

 学校教育法第30条2項が示す学力は、「知識及び技能」「思考力、判断力、表現力等」「学びに向かう力、人間性等」であり、それぞれ「習得」「育成」「涵養」するものとされている。
 学力テストでは、「知識・技能」と「思考力・判断力・表現力」の一部を量的に測定することはできるが、「学びに向かう力・人間性等」質的な部分は測定することは難しくなる。
 学力テストの点数が悪いということは、この前者の部分が悪いということになるのだが。しかし、気をつけなければならないのは、これら知識や技能等の「獲得の仕方・方法」がまずいということにもつながっている。つまり、そもそも質的な部分が悪いから量的な部分が獲得されていないということになる。要は、思考力・判断力・表現力等を「働かせる」ことのできる子どもにとって楽しい授業をめざさなければならない。
 学力問題について思いつくところを指摘してみたい。はじめの2つは政治だと思う。
  〇「教員養成に対する将来不安」教員養成に対する確固たる意思が見えなくなった。
  〇「施策が及ぼすときめき効果の退行」さんさん以来、カンフル剤が打ち出されていない。
  ◇「教科の専門性、見方・考え方の軽視」何を大事にどう考えるべきか。教科毎に一貫したも    のがあるはず。
◇「授業の基本の軽視」教材の構成提示、発問、板書構成、そして話し合いが基本。
  ◇「エピソード評価による自己満足」総合は大切だが、未熟な若者には魔物である。
  ◇「座って授業、高齢化?」教師はもっとアクティブにならなければ。
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ヘッセの小説から [教育]

 「すぐれた強い性質のものより平凡な人間を宰領するほうが、監督者にとっては、どんなに簡単で平和でらくであるかしれない・・・・」(ヘルマン・ヘッセ『知と愛』高橋健二訳)
 物語の舞台マリアブロンの修道院、ダニエル院長がそう思う対象は二人いる。優秀さゆえ若くして生徒と教師の間の例外的地位を与えた神学者ナルチス、その友で美に奉仕するドルトムントである。二人の異才を引き受けた院長としての覚悟だったのかもしれない。
 だがどうだろうか。時として、小説の一部分が自分の語りかけてくるような場面に出くわすことがある。
 すぐれた資質を持ちながら、似合う舞台に登場できなかった人たちの顔が浮かぶ一方、地位が役割を与え、次第に開花していくような人たちもいた。
 手のかかる子どももいれば、手のかからない子どももいる。クラス替えの時、しばしばこの尺度が一つの考慮事項としていたように思う。
 人はどうしても「らく」を手に入れようとするらしい。でも、それが仕事として、人生として「楽しい」となるかは別物で、むしろ逆なのかもしれない。
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