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ヘッセの小説から [教育]

 「すぐれた強い性質のものより平凡な人間を宰領するほうが、監督者にとっては、どんなに簡単で平和でらくであるかしれない・・・・」(ヘルマン・ヘッセ『知と愛』高橋健二訳)
 物語の舞台マリアブロンの修道院、ダニエル院長がそう思う対象は二人いる。優秀さゆえ若くして生徒と教師の間の例外的地位を与えた神学者ナルチス、その友で美に奉仕するドルトムントである。二人の異才を引き受けた院長としての覚悟だったのかもしれない。
 だがどうだろうか。時として、小説の一部分が自分の語りかけてくるような場面に出くわすことがある。
 すぐれた資質を持ちながら、似合う舞台に登場できなかった人たちの顔が浮かぶ一方、地位が役割を与え、次第に開花していくような人たちもいた。
 手のかかる子どももいれば、手のかからない子どももいる。クラス替えの時、しばしばこの尺度が一つの考慮事項としていたように思う。
 人はどうしても「らく」を手に入れようとするらしい。でも、それが仕事として、人生として「楽しい」となるかは別物で、むしろ逆なのかもしれない。
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これは裏切りだと思います [教育]

 一連の加計学園問題で気になっていることがあります。
 文科省の現役職員が記者たちに匿名で真相を語り、文書を渡したことを、義家弘介・文科副大臣が、6月13日の参院委員会で、「国家公務員法違反(守秘義務)の疑いがある」と懲戒処分で脅そうとしました。これは大変ショッキングなことでした。それ以来彼の声が聞こえません。今はどう思われているのでしょうか。
 義家氏といえば、かつては「ヤンキー先生」と呼ばれ、弱い立場の生徒たちを守る熱血指導で知られた人でした。それが、文科省の役人の書いたペーパーを読むだけの、まるで文科省の飼い犬に成り下がってしまったようです。学校で校長が先生方を最後まで守らないで誰が守るのでしょうか。彼には、部下を守る姿勢など微塵もありませんでした。
 彼は今副大臣です。政治家になられたのも選挙時における政党の人気取り政策によって造られた政治家だと記憶しています。それでも多くの人々が期待したのは、彼に政治家としての「ヤンキー先生」を期待したからではないでしょうか。
 もはや、彼は政治家から身を引くべきと思います。もう一度、原点に返って欲しいものです。もう彼には、見るべき政治家としての魅力も能力もあるとは思えないのですが。それに多くの人々を裏切っているのですから。
 こんな人たちばかりだから、世間では前川さんの姿勢を称賛しているのだと思います。
 


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今時の道徳の時間 [教育]

 附属の公開研に2日間全日程に参加させていただきました。満足です。何せ、附属を出てから初めてのことでしたから。特に関心があった道徳のことについて少し話したいと思います。
 中川先生と逸見先生、どちらも「よい授業」をしてくださいました。お二人に共通することから挙げてみますと、
  ① どこの教科書にも掲載されている資料の使用
  ② 反応性の高い子どもたちの聞き合う姿勢
  ③ 「もし~しなかったら」という場の設定
 ②については2か月間でここまで育てられたことに拍手すると同時に、参会者の若い先生方や学生さん方に、ベースとして大切なことを示してくれたような気がします。①については、とかく目新しさやアイデアにおぼれがちな所ですが、誰もが使える資料で堂々と授業で勝負されていました。③について少しお話ししましょう。
 これは、共同研究者(大学)の考え方を入れられたようです。両授業とも「正直にいってよかったね」と収束したところに、これが切り出されます。わたしの観念ではこれは禁じ手とされてきたことです。ですから、その意義を聞いてみたところ、共同研究者がそれに答えてくれました。
 わたしが解釈したところでは、「考える機会が多くなることで、多面的に考えることができる」ということのようです。一理ありなのですが、せっかく追求・深化してたどりついたところで、「もし~」が入ることの意味は疑問が残ります。さらに気になるのが、価値づけが理屈っぽくなることです。左脳での理解ということです。小学校の子どもたちには、明るくよかったねでダメなのか、気になる所です。
 もう一つ気になったのが、かつてはやや禁じ手に近かった「資料の分断提示」です。事後研では話題になりませんでしたが、「丸ごと提示」した場合と比べて検証して欲しかったところです。実際、前半だけ読んだところで、ある子どもがこんなことを言ったのです。
 「どうして題にあるお月様が出てこないの?」って。ちょっと不注意でしたね。望むのは、良し悪しよりも、何故そうしたかの理論なのです。
 このお二人の先生の授業。一見の価値はあります。是非、来年でも見てください。

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幸せだなぁー [教育]

 附属を出てから26年になります。初めて公開研全日程参加することにしました。すると不思議ですね。朝から心臓がバクバクして、何だか落ち着かないのです。
 教頭先生から配慮いただき、車で行くことができました。キラキラした太陽、頬をくすぐる薫風、若い学生さんたち、そして昔なじみの顔。ここは、玄関を入りかけたところで明るく澄んだ声が返ってくる。ついぞ忘れかけていた笑みが前期高齢者の顔にも宿るのです。
 授業参観が始まりました。客観的であれという望みはいつのまにか絶たれ、のめり込んでしまう自分、はっと気づけば、30年前と余り変わらない子どもたちが、それこそ祭りのような張り切りようで活躍しています。今日は、院生として四小に来ていた中川先生の道徳を中心に、理科や家庭、算数、体育の授業を通覧させてもらいました。
 そして研究発表、十年間で八回も立たせていただいて檜舞台は思い出が頭を駆け巡りました。そして、事後研があり、最後は講演会まで聞かせてもらいました。
 要は、やっぱり附属はいいなということです。いや、附属に限らず「教育」は、本当にすばらしいということです。五年間も忘れかけていた喜びは、全身を駆け巡りました。そして思ったのです。今、教育に携わっておられる皆さんが、意外と難しい顔をなされているということです。わたしも今になってわかるのですが、目の前に子どもたちがいることは、本当に幸せなことなのです。
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道徳性の評価 [教育]

 「特別の教科 道徳」では、評価が行われます。
 評価とは、「結果に対して主観的な価値づけ・解釈を行うこと」ですから、当然「指導に生かす」ためのものであり、数値などによる評価は馴染みません。
 専門家会議では下記の観点から検討されているようです。
 ① 記述式
 ② 個人内評価
 ③ 比較して優劣を決めない評価
 ④ 大括りな評価
 ⑤ 発達障害への配慮
 どれも大切な観点です。②が難しいと思います。個人内評価では、進歩(縦断的)評価のみならず、プロフィール(横断的)評価における、子どもの複数の側面を比較する視点も必要と考えています。
 「前より~がよくなった」だけでなく「~より~の方がよくできる」という見方を加えることですね。その「~」の中に、内容項目を越えた大括な教師のとらえが表現されるものと考えています。
 
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この道徳観は嘆かわしい! [教育]

 加計学園問題で、文科省の再調査が決まりました。「文科省がやる」と言うのでと菅くん、「徹底的にやれと指示した」と安倍くん、おめおめとそこまで言うかと、その責任転嫁には呆れてしまいます。
 道徳の目標に照らせば、「道徳的諸価値についての理解」は無いようです。「自己を見つめ、物事を多面的・多角的に考え」ることなど無理なようです。ですから、「自己(人間としての)生き方を深める学習」など成立しませんし、そこに「道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度」など微塵もありません。
 安藤ハザマが、原発事故による除染事業で不正をやったと報じられています。作業員の宿泊費用を水増し請求して8千万円を誤魔化したのです。6年も経過した被災住民の心情をおもんばかれば、そんなことができますか。「この人たちを救う」という国家的使命と仕事への誇りなど無いのですね。ゼネコンがゼニ(銭)コン(金)に感じられます。あのかつてNHKでやっていた『プロジェクトX』で観た国づくりの栄光が消えかかっています。
 誤魔化して平気で金儲けする人たちは、それができる社会を歓迎します。それに支えられた人たちが、今、国民を愚弄するかの如く振る舞っています。そして、こういう人たちが道徳の強化を叫んでいます。
 毎日目にし耳にする社会の出来事がもっとクリーンにならなければならないと思います。このままでは、自分たちだけがズルをできる社会を維持するために、他の国民にはズルはいけないとする道徳になってしまうような危惧の念を抱いてしまいます。
 学校で道徳が教科化されます。社会はこのままでいいのでしょうか。この二つのニュースの主役たちにこそ、道徳教育が必要な気がします。
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道徳の教科書に見る家族観 [教育]

 道徳について学び直しをしています。
 特別の教科 道徳が生まれ、これまで扱われていた副読本が、一気にグレードアップして検定教科書として登場してきます。もう既に検定が終わり、見本本として出ているのでしょうが、少しばかり期待していることを書いてみたいと思います。
 これまでの副読本では、「父親」があまり登場してきませんでした。圧倒的に出番が多いのがお母さん、ぼくやわたしと直接かかわる重要人物として登場しています。それに比べ、父親は低学年になるほど、脇役(チョイ役)的な扱われ方をされてきました。実情的と言われればそれまでですが、最近の若い世代の家族像は、むしろ家族としてのしなやかな関係の中で、父親としてとか母親らしくなどという考え方がゆるやかになってきているように思います。ですから、もっと父親を出して欲しいということです。
 もう一つは、核家族、あるいは祖父母を含めた理想的とも言える家族構成が扱われています。ですから、昨今のさまざまな家族形態が現実にある中で、注意して扱わなければならないことがありました。そうした現実から考えた場合、もっと多様な家族形態が扱われるべきだと思います。低学年において、人間家族では扱いずらいならば、動物でもいいじゃありませんかねぇ。
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昭和33年の「道徳」誕生について [教育]

 1958(S33)年の学習指導要領の改訂により、道徳は教科外の活動として、敗戦による修身の廃止以来の復活を遂げます。普通なら、59年度から実施されるはずなのですが、道徳だけが58年4月から始めるよう各学校に通達されました。
 学校はどうだったか。推測ですが、道徳の復活も想定外ならば、すぐ実施には無茶を感じていたと思います。文部省側にしても、実施要項の作成が間に合っていなかったという事実もありますから、文部大臣の独断で強行した可能性があります。
 教職員団体がこれに反発し、一部の教職員たちは、道徳の授業をやらないと宣言します。その結果、一学期に実施した学校は、全国でも半分に満たなかったと言われています。
 メンツを潰された文部省は、一学期は試行期間だったとうそぶき、二学期からの実施を義務付けるなど巻き返しに出てきます。9月6日、全国から300人あまりの教員を東京に集め、「道徳教育指導者講習会」を開催します。ところが、予定された会場が反対派によって封鎖されます。これを予期していた文部省側は、講習会参加者を早朝こっそりバスに乗せ、1,500人の警察官に守らせて、上野博物館に移す作戦で裏をかいて実施したのです。
 田口由美子先生(元山六小校長)の父池田指導主事(余目町教委)は、山形県を代表してこの講習会に参加していました。実際は数回の会場変更があったようです。おそらく、作戦がばれないように内部も攪乱していたのだと思います。参加者の心労は想像を絶するものだったろうと思われます。池田先生はこの犠牲者となられたのです。当時、現在のように、教員の身分を持ちながらの「充て指導主事」の制度はなく、教員を退職しての指導主事であった池田先生には、退職金も出ませんでした。
 某新聞社は、これを「一円指導主事」として報じたと聞いています。
(聞き違いなどあるかもしれません、大意をご理解ください。)

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道徳不在の国会 [教育]

 昨日の国会中継で、首相らの答弁を聞いて、またしても暗ーい気持ちになってしまいました。
 「加計学園」も「森友」のように、消去されようとしています。それにしても、捕まえた鯉を逃がし続ける野党がだらしないです。数に奢る傲慢さに完全にやられてしまっているのですから。これでは、国会も野党も、ひいては国民までもが甘く見られているどころか、馬鹿にされているとしか思えません。
 テレビを見て過ごす時間が多くなっています。「振込み詐欺」、「痴漢」、「暴力」などと「賄賂」とか「便宜供与」とは、大きな違いがあるコトに気付きました。前者は、明確に加害者と被害者がいるのですが、後者には、加害者側がいるのに、被害者が明確ではありません。ここが大事なのです。
 賄賂における被害者とは?賄賂を贈らなかったために仕事や許可をもらえなかった人。でもその人は賄賂の授受があったことを知りませんから、自分が被害者であることを知る由もありません。だから、訴えがないのです。
 そうした意味では、加計学園も似ています。被害者がうわさには出てますがはっきりしません。多分、政治家や役人は、そういう事情を熟知しています。うまくやればばれないと思っているのだろうし、双方がよい思いをして儲かっているのですから、わかっちゃいるけどやめられないのです。
 こうした悪行は、政治家や役人の特権であることは、国民がみんな知っています。それを、縦横無尽に振りかざしている方が「悪いことをしたら正直に謝りなさい」などと教える道徳を強化し、教科化までしたのですから驚いてしまいますね。
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「知識」と「常識」 [教育]

 知識とは、「事実に基づく知」である。
 常識とは、何だろうか。「解釈」のようなものではないだろうか。だから、一人一人の解釈が違うということも当然起こりうるわけで、こうした主観の多数決(大団円)みたいなものを「常識」としているのではないだろうか。もっと大きく考えてみると、常識というものは、その時代、その国、その組織、・・・だけに通用するものだったに違いない。
 「特別の教科 道徳」が来年度から始まる。改正教育基本法第二条に「教育の目標」が細分化されて明示され、それが道徳のランクアップにつながったようにも見えるが、さして大きく変わったようには見えない。変わったのは教科になってやり方が変わった。評価もしかりである。
 各教科の評価対象は、大きな意味での「知識」である。すると、道徳は「常識(解釈)」を評価するのか?
 道徳は、もとより模範解答はない。自分とは違う人間が世の中に存在していること(多様性)を認めていくことを学んでいく時間であるととらえることもできる。
 それでも「分からないことが分かるようになり、できなかったことができるようになる」という教科の特質に共通するものが道徳にもあるのだと考えている。この辺が突き詰められていないと「特別の教科 道徳」は、内心の強要に発展する恐れさえある。
 「へえーこんな考えもあるのか」というような「気づき」、「A君の言葉に、あのジャンバルジャンのように、立ち尽くすだけでした」などの「ふり返り」などが、評価として研究されていく必要があるのではないだろうか。
 「嘘」は自分の行為としてはよくない。だが、相手を考えた上での「嘘」というのもある。
 「普段噓つきの子ども」が嘘を否定し、「いつもは正直な子ども」が嘘を許す場合だってある。
 間違いなく「正解」はなく、「その子在ってのその応え」があるのだから、求められるのはそれを理解できる先生ということになる。
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