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虚言と空言 [教育]

 子どもたちにはもっと夢を語らせたいものです。
 夢は感動の中でこそ大きくはばたくものです。だから、自然体験や読書などは大切なのです。
 例えばスマホの世界、答えを探しては見つけておしまいです。lineでつながる便利さに夢中になってしまうのですが、どうやら、つながるためにつながりを求めているように思われます。この頃は、子どもたちもこんな世界にハマっているのでしょうね。
 夢は、空言(そらごと)で、子どもたちの特権です。それこそが「子どもの世界」です。大人は、それを「デタラメ」と言ってはいけません。聴いてやって反応してやると夢は膨らみます。真っ白なキャンパスに自由に描かせるような時間と空間が求められているように思います。
 ところで、「もりかけ」の世界は虚言(きょげん)です。偽りであり、嘘であり、誤魔化しです。いっちょまえの大人が、虚言を空言のように平気で言っている様は、どこか、未熟なお坊ちゃま育ちのファッシズムが漂っています。
 子どもをこんな大人にしてはいけません。だから、今は大きな夢を描かせましょう。「ふつうの大人」に育ってもらいたいから。
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権力に立ち向かう「me too」 [教育]

 ハリウッドの大物プロデューサーワインスティーンが起こした数多のセクハラ事件が、全世界に「me too」運動を巻き起こした。
 イギリスで制作されたドキュメンタリーを観て、「権力」という文字が浮かんできた。権力は、何をやってもOKという意味で横暴であり、被害者を黙らせるという意味で威圧的なものである。
 翻って学校に転化してみる。ここに権力が蔓延ってはいないだろうか。とりわけ校長が行使できるのは「権力」ではなく、責任に裏打ちされた「権限」であり、「責務」と認識すべきものである。
 ソファーに仰け反り、指先で職員を呼びつけ、相手を直立不動のまま命じたりするようなことをしてはいないだろうか。どうやら、今の学校にはそうした方はいなくなったと思っている。ところが、社会には今なお、そうした香りを全身から放ちながら、「権力」を笠にして尊大なる自己内にドーパミンを満たしている輩がいる。彼らは、その興奮が醒めると襲われる不安を払拭するために、またしても権力行使に手を染める。被害者は黙るから彼らに反省はない。
 日大のアメフト騒動も似たようなもの。レスリングでは、権力が金メダリストに圧力をかけていた。こんな社会を変えるには、もっと声をあげるべきなのではないか。「me too」はセクハラに限ったことではないのである。
 「もりかけ」にしても、この「権力」にかかわる部分が解明されていない。あの優秀とされてきた官僚が「嘘」をつかなければならない構造は理解し難い。
 「権力」に立ち向かったら「権力」に押しつぶされる。その暗黙知を振り払う手段として「me too」を我々は行使していく時代が来たのだ。
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この場合の「日本人の育成」は? [教育]

 県連小の研究協議会に行ってきました。変だなと思ったことです。
 全連小では、平成25年度から「新たな知を拓き 人間性豊かな社会を築く 日本人の育成を目指す小学校教育の推進」を大会主題にしているようです。隣に座っておられるCさんがある箇所を指さして首を傾げています。
 やはり同じのようです!でも、どうしてこれまで気づかなかったのでしょうか。「日本人の育成」の「日本人」とは何を意味しているのか分からないのです。
 よく使われる言葉に「英語が使える日本人の育成」があります。この場合の意味はわかります。
 しかし、全連小は何を意図しているのかわかりません。グローバル化した時代に日本人に限定するのはなぜでしょう。「国籍」でしょうか。それとも「民族」ですか。生物学上の「純血」ともとられかねません。それともアイディンティティとしての「日本人」でしょうか。だとしたら、是も非も含めて、それを定義したうえでどうしたいかを述べるべきでしょう。
 確かに教育は「人間」を育てるものです。それでも、大そうなことは言わずに小学校ならば「子ども」の育成でよいのではないでしょうか。
 説明のないまま、「日本人の育成」と言われては、これまで誤解もあったでしょう。昭和初期での意味合い、戦後における意味合い、そして、多様化した平成では、もはや、色々なシグナルが見える言葉となり、単独で使うには、危険とは言わないまでも好ましくはないと思うのです。
 
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「時短」された運動会 [教育]

 一週間前、川崎市の孫の運動会で、弁当開きの場所取りをしていたことを書いた。いつもと変わらない運動会だった。
 そして先週の土曜日、今度は仙台市の孫の運動会。いつもは校庭いっぱいに広げられているはずのビニルシートがいつもの半分以下に減っていた。プログラムを見てびっくり。閉会式が12時15分と記されていたのだ。
 この疑問をマイゼンのKさんにぶつけてみたら、「出てたよ」とタブレットでその記事を見せてくれた。詳しくはわからないのだが、全国的にそうした動きが起きているようだ。
 場所取りはもとより、共働き世帯の増加、しかも土曜日に仕事という方もいるわけで、弁当作りの負担もなくなったわけだ。実際、弁当を持ってこられなかったり、作ってもらえなかったりの子どももいたわけで、そうした子どもへの配慮ともとれる。まぁ、理由の一つは、保護者の声だろうか。
 もう一つの理由としては、教育の働き方改革というのが考えられる。種目を減らせば準備する物品も練習に掛ける時間も減らすことができる。時流に乗った試みではあろう。
 そして、最後の理由が授業時数の増加。種目をそのままにして練習時間を減らすのは難しい。まして、学年一堂に会したり、学年をまたいだ練習時間を確保するのは容易いことではない。
 どうやら、運動会の時短は避けられないことのようだ。だが、二つの運動会を比べて思うことがある。やっと確保した場所でじじばば含めて昼ご飯を食べる運動会には、綱引きや騎馬戦、選抜リレーと伝統的種目が歓声を呼んでいた。一方、思い切った仙台市の小学校ではあったが、中味は失礼ながら「とりあえずの運動会」にスケールダウンしていた。行事が子どもの外にある理由だけで、変えててはならないものだと感じた。この行事で子どもたちに「何を育てようとしているのか」見えなかった。
 時短にするか、しないか、そうではあるまい。行事は子どもにとってどうあるべきか、総合的に各学校が議論すべきではないか。
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人のせいにしない [教育]

 Hさんと「働き方改革」について、わずかな時間だったが意見を交わした。
 人が「多忙」と感じるのは、そこに「他人にやらされている」仕事という思いがあるものだ。自分でしなければならない、しようと決めたことを遂行するに、そんな邪念が入り込む隙はなかった。だから、やり遂げた後には、ご褒美のようなきらめく朝と充実感を得られたものだ。自信や誇りなどというものは、そうした自己のぎりぎりの世界の中で醸成されていくものではないだろうか。
 だから、仕事に関して「人のせいにする」ことは、自ら仕事への意志を放棄していることに他ならない。先生方は、もっともっと「individual」でなければならない。個人として独立した人間として組織に加担すべきである。役割はあっても、何をどのようにいつ行うかは、個人にゆだねられる。率先して起案していけば、つらい面もあろうが気分はよいはず。教頭先生から言われてからでは、しかも締め切りが近づいてからでは、それは「多忙」を感じることになる。
 自ら、役割に積極的であることは、経営全体に対する自らの意見を持つことになる。実は、人のせいにしないことは、組織のコミュニケーションの活性化に結びつくはずである。
 アウシュビィッツに「ヒトラー」の写真はなかった。中谷氏は、これは、此処で行われたことが、「ヒトラーやナチスだけのせいでない」ことを意味していると語る。
 
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生きること考えること [教育]

 生きることは考えることである。
 雑草が伸びるから、植木に水をやるのをできるだけ控えていた。ところが、植物に関する岩波新書には、水をやらないと植物は根を成長させると書いてあった。そこで、数センチほど伸びた雑草を根こそぎ掘り出してみると、確かに根は地上部分の数倍に達していた。
 つまり、水を控えていたら、我が庭の雑草は、その根にわずかな水分でも生きられる能力を身につけていた。これでは雨季に入ったら、空恐ろしいことになるのではと不安になっている。
 「水絶てば草枯れる」という、これまで「自明なもの、不動なもの、確実なもの」として疑うことのなかった自分の考えの前提や基盤が揺らぎ、再び考え始めている。
 小学校の学習指導要領で身に付けた程度の知識は、確かに「水絶ち」という知恵によって行動化された。つまり、知識が知恵となるために、わたしは、知識を自分のものとして使いこなした。
 ところが、その知識なり知恵は、大自然の摂理に対して太刀打ちできるものではなかった。だから、わたしは、次なる策として新たな知識を求め、逞しい植物の姿を知ることとなった。さて、どうするかを考え始めている。
 どうだろうか。生きるとは考えることのようだ。しかし、考えることは「動揺」によって始まる。価値観が転換するような、これまで生き甲斐と思っていたことが否定されるような、まぁ、そんな大それたことでなくてもいい、自分を取り巻く環境との関係が少しでも揺らぎ始めたら、子どもは本当に真剣に考えるのではないだろうか。
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