So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

虚言と空言 [教育]

 子どもたちにはもっと夢を語らせたいものです。
 夢は感動の中でこそ大きくはばたくものです。だから、自然体験や読書などは大切なのです。
 例えばスマホの世界、答えを探しては見つけておしまいです。lineでつながる便利さに夢中になってしまうのですが、どうやら、つながるためにつながりを求めているように思われます。この頃は、子どもたちもこんな世界にハマっているのでしょうね。
 夢は、空言(そらごと)で、子どもたちの特権です。それこそが「子どもの世界」です。大人は、それを「デタラメ」と言ってはいけません。聴いてやって反応してやると夢は膨らみます。真っ白なキャンパスに自由に描かせるような時間と空間が求められているように思います。
 ところで、「もりかけ」の世界は虚言(きょげん)です。偽りであり、嘘であり、誤魔化しです。いっちょまえの大人が、虚言を空言のように平気で言っている様は、どこか、未熟なお坊ちゃま育ちのファッシズムが漂っています。
 子どもをこんな大人にしてはいけません。だから、今は大きな夢を描かせましょう。「ふつうの大人」に育ってもらいたいから。
nice!(0) 

権力に立ち向かう「me too」 [教育]

 ハリウッドの大物プロデューサーワインスティーンが起こした数多のセクハラ事件が、全世界に「me too」運動を巻き起こした。
 イギリスで制作されたドキュメンタリーを観て、「権力」という文字が浮かんできた。権力は、何をやってもOKという意味で横暴であり、被害者を黙らせるという意味で威圧的なものである。
 翻って学校に転化してみる。ここに権力が蔓延ってはいないだろうか。とりわけ校長が行使できるのは「権力」ではなく、責任に裏打ちされた「権限」であり、「責務」と認識すべきものである。
 ソファーに仰け反り、指先で職員を呼びつけ、相手を直立不動のまま命じたりするようなことをしてはいないだろうか。どうやら、今の学校にはそうした方はいなくなったと思っている。ところが、社会には今なお、そうした香りを全身から放ちながら、「権力」を笠にして尊大なる自己内にドーパミンを満たしている輩がいる。彼らは、その興奮が醒めると襲われる不安を払拭するために、またしても権力行使に手を染める。被害者は黙るから彼らに反省はない。
 日大のアメフト騒動も似たようなもの。レスリングでは、権力が金メダリストに圧力をかけていた。こんな社会を変えるには、もっと声をあげるべきなのではないか。「me too」はセクハラに限ったことではないのである。
 「もりかけ」にしても、この「権力」にかかわる部分が解明されていない。あの優秀とされてきた官僚が「嘘」をつかなければならない構造は理解し難い。
 「権力」に立ち向かったら「権力」に押しつぶされる。その暗黙知を振り払う手段として「me too」を我々は行使していく時代が来たのだ。
nice!(1) 

この場合の「日本人の育成」は? [教育]

 県連小の研究協議会に行ってきました。変だなと思ったことです。
 全連小では、平成25年度から「新たな知を拓き 人間性豊かな社会を築く 日本人の育成を目指す小学校教育の推進」を大会主題にしているようです。隣に座っておられるCさんがある箇所を指さして首を傾げています。
 やはり同じのようです!でも、どうしてこれまで気づかなかったのでしょうか。「日本人の育成」の「日本人」とは何を意味しているのか分からないのです。
 よく使われる言葉に「英語が使える日本人の育成」があります。この場合の意味はわかります。
 しかし、全連小は何を意図しているのかわかりません。グローバル化した時代に日本人に限定するのはなぜでしょう。「国籍」でしょうか。それとも「民族」ですか。生物学上の「純血」ともとられかねません。それともアイディンティティとしての「日本人」でしょうか。だとしたら、是も非も含めて、それを定義したうえでどうしたいかを述べるべきでしょう。
 確かに教育は「人間」を育てるものです。それでも、大そうなことは言わずに小学校ならば「子ども」の育成でよいのではないでしょうか。
 説明のないまま、「日本人の育成」と言われては、これまで誤解もあったでしょう。昭和初期での意味合い、戦後における意味合い、そして、多様化した平成では、もはや、色々なシグナルが見える言葉となり、単独で使うには、危険とは言わないまでも好ましくはないと思うのです。
 
nice!(1) 

「時短」された運動会 [教育]

 一週間前、川崎市の孫の運動会で、弁当開きの場所取りをしていたことを書いた。いつもと変わらない運動会だった。
 そして先週の土曜日、今度は仙台市の孫の運動会。いつもは校庭いっぱいに広げられているはずのビニルシートがいつもの半分以下に減っていた。プログラムを見てびっくり。閉会式が12時15分と記されていたのだ。
 この疑問をマイゼンのKさんにぶつけてみたら、「出てたよ」とタブレットでその記事を見せてくれた。詳しくはわからないのだが、全国的にそうした動きが起きているようだ。
 場所取りはもとより、共働き世帯の増加、しかも土曜日に仕事という方もいるわけで、弁当作りの負担もなくなったわけだ。実際、弁当を持ってこられなかったり、作ってもらえなかったりの子どももいたわけで、そうした子どもへの配慮ともとれる。まぁ、理由の一つは、保護者の声だろうか。
 もう一つの理由としては、教育の働き方改革というのが考えられる。種目を減らせば準備する物品も練習に掛ける時間も減らすことができる。時流に乗った試みではあろう。
 そして、最後の理由が授業時数の増加。種目をそのままにして練習時間を減らすのは難しい。まして、学年一堂に会したり、学年をまたいだ練習時間を確保するのは容易いことではない。
 どうやら、運動会の時短は避けられないことのようだ。だが、二つの運動会を比べて思うことがある。やっと確保した場所でじじばば含めて昼ご飯を食べる運動会には、綱引きや騎馬戦、選抜リレーと伝統的種目が歓声を呼んでいた。一方、思い切った仙台市の小学校ではあったが、中味は失礼ながら「とりあえずの運動会」にスケールダウンしていた。行事が子どもの外にある理由だけで、変えててはならないものだと感じた。この行事で子どもたちに「何を育てようとしているのか」見えなかった。
 時短にするか、しないか、そうではあるまい。行事は子どもにとってどうあるべきか、総合的に各学校が議論すべきではないか。
nice!(1) 

自分の意思に反することは、するべきじゃなかった。 [日記]

 「わび」を「わび」として受け止めてもらえないような「わび」は、ほんとうの「おわび」にはならない。
 アメフト事件も、被害者の選手が試合に復帰して、加害者の選手に対してエールを送ったと報じられている。何と爽やかなことか。これぞ、スポーツマン・シップなのだと思う。
 加害者の日大の選手にしても、あの記者会見を見る限り、同じ思いがする。そして、ここにだけは、心地よい風が吹きわたっていることを感じる。 
 汚れた人は入院だとか。世論の鎮静を待つというのだろう。何と姑息なことか。この方はスポーツ界からはもとより教育界から去っていただきたい。連綿と地位にしがみ付く悪臭が漂う。近頃は、後進に道を譲ろうとしない寄生虫型の年寄りが目に付く。彼らは、汗水たらすことなく、美味しい汁をむさぼり続ける。既得権に甘え、安住の椅子に揺られて、万札を指に唾つけ数えて日を暮らす。晩節を汚すような生き方は恥じるべきである。
 その下に仕えるコーチ。ゆがんだ組織で忠実に振る舞うことしかできない、ちっちゃな人間(体は大きかったが)にしか見えない。年寄りは、がんじがらめにして個人の人格を絡めとるのに長けているのだ。だから、そんな組織にどっぷりとつかることで、自分の将来を描いていたとすれば、それは間違いだね。序列がすべての巣窟では、ものごとを相対化してみることで自分の立ち位置を変えることなどできなくなるんだよ。
 井上さん、あなたは森友の佐川前理財局長、加計の梁瀬元首相秘書官らと同じだ。その従順な口が吐き出す言葉によって、理不尽な扱いを受けているという思いはやるせないことだろう。
 だから言っているじゃないか。あの若者が反省している単純で簡単な言葉。
「自分の意思に反することは、するべきじゃなかった。」
 近頃は、みんながこのことで躓いている。
nice!(0) 

小学校最後の運動会 [家族]

 川崎の孫の最後の運動会に行ってきた。
 3日間も泊まらせてもらって、愉しい時間を過ごさせてもらった。たまにしか会えない孫だから、変化や成長が見える。そして、育ってきているものを感じ取ることができるのだ。
 この先、どれだけ時間を共有できるのだろうかと考えてみれば、とても大事な時間のように思う。だからと言って、子育てにとやかく言うつもりはない。
 今回は、山形から持参したミニトマトの苗をプランターに植えてやった。去年から始めたことで、下の方は喜んでいる。ジジィが言うのはただ一言、「毎日水を!」である。
 これには、孫たちそれぞれが、一つでもいいから自分で大切と思うことを、やり遂げてもらいたいという願いを込めている。
 でも、一番変貌を遂げているのは、お父さんとお母さんなのかもしれない。大したものではないか。
nice!(0) 

尊大な人は「自分ファースト」 [日記]

 黒を白にできると思っている方がいる。
 その誰もが尊大な権力を手中に「収めた」と思っている方々である。「預かっている」だけなのだから、もっと謙虚であれ。
 正直でありたいと勇気を奮った若者がいた。若者は尊大な権力によって取るべき行動を間違えた。それが過ちだと気づいたから、自分進むべき道、とるべき考え方を変えようとした。
 尊大な権力を守ろうとしか考えていないようなあの方は、「〇〇ファースト」の〇〇は、「自分」だったようだ。少なくても、教育に携わる端くれの気概があるならば、守るべきは「自分」ではなくて「若者」ではないのか。あなたは、さっさと教育の場から立ち去るべきだ。
 どんなに証拠が積まれても、理由にもならないことで否定する方がいる。彼は日本の道徳をこの一年でどれだけ廃らせたことか。こんな人間でも権力者ならば、組織から守られるものなのか。何だかわからない共同の利益のために、恥ずべき話を平気でしている者がいる。一票を投じた選挙民は、彼らが一番大事にしていることは何なのか、わかったのではないだろうか。
 正義と勇気が廃れ、個人が崩壊しかけている。同調するだけの金太郎飴ならば、政治家などというものはもっと少なくていい。個人を失くしてしまうような尊大な権力者を組織は極力作らないように注意を怠ってはならない。
 「他と共存して、共同の利益を求める」という崇高な考え方に、近頃は悪徳業者が蔓延っている。
nice!(1) 

人のせいにしない [教育]

 Hさんと「働き方改革」について、わずかな時間だったが意見を交わした。
 人が「多忙」と感じるのは、そこに「他人にやらされている」仕事という思いがあるものだ。自分でしなければならない、しようと決めたことを遂行するに、そんな邪念が入り込む隙はなかった。だから、やり遂げた後には、ご褒美のようなきらめく朝と充実感を得られたものだ。自信や誇りなどというものは、そうした自己のぎりぎりの世界の中で醸成されていくものではないだろうか。
 だから、仕事に関して「人のせいにする」ことは、自ら仕事への意志を放棄していることに他ならない。先生方は、もっともっと「individual」でなければならない。個人として独立した人間として組織に加担すべきである。役割はあっても、何をどのようにいつ行うかは、個人にゆだねられる。率先して起案していけば、つらい面もあろうが気分はよいはず。教頭先生から言われてからでは、しかも締め切りが近づいてからでは、それは「多忙」を感じることになる。
 自ら、役割に積極的であることは、経営全体に対する自らの意見を持つことになる。実は、人のせいにしないことは、組織のコミュニケーションの活性化に結びつくはずである。
 アウシュビィッツに「ヒトラー」の写真はなかった。中谷氏は、これは、此処で行われたことが、「ヒトラーやナチスだけのせいでない」ことを意味していると語る。
 
nice!(0) 

時差ぼけ [日記]

 この一週間近く、夫婦ともども時差ぼけに悩まされています。
 突然、地中の奥底に落とされたように眠くなります。
 やはり、年のせいでしょうか。こんなの初めてです。
 それでも頑張って少しずつ「ポーランド紀行」を書き始めています。
nice!(0) 

暗黒の森の中に彷徨うのか! [日記]

 なんとも情けないような国になってしまったようだ。毎日の報道をみていると、政府とりわけ官邸を取り巻く人間たちには辟易する思いがする。
 かつて、許さないことが平気でまかり通ったことがあった。80年ほど前である。憲法にもない「統帥権」を盾に、軍部は勝てる見通しのない戦争へと導いた。日露と変わらぬ八十九式の単発銃で、敵の最新式の機関銃に向かっていった。「バラバラ撃つ」より「一発一発心を込めて」撃てば当たるという、呆れた精神論がまかり通るような国に成り下がったのだった。今は、いとも簡単に、黒を白にせんとたくらむ財務官僚のへ理屈が大手を振ってまかり通る。「公僕」などという言葉はもはや死語だ。彼らは、全体に奉仕する公務員としての自覚もないようだ。そもそも国民を小馬鹿にしているのだから。今まで気づかなかった国民が、ほんとうに愚かだったのかもしれない。
 A氏は米へと飛んだ。A夫人が同行する様を見て呆れたのはわたしだけか。いや、そうではないだろう。どんなに怒りがこみ上げても、国民は声にしなくなりつつある。これも恐ろしいことだ。何も言っても無駄だと思わせたら、独裁者の思う壺である。
 わたしたち世代は、勤勉で、手先が器用で我慢強く、世界から羨望のまなざしで見られている国と教えられてきた。誇りある「日本」が危ないことに気付かせられたのが小泉さんの時代、それから浮かび上がることなく、今、暗黒の森の中に彷徨いだしてしまったように思う。
nice!(0) 
前の10件 | -