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父の一周忌 [家族]

 父の一周忌がやってきた。あれから一年、毎朝仏壇に手を合わせるようになった。ごく自然にそうなっている。
 34年前、52歳で母が亡くなった時、何とも言えぬ悔しさがこみ上げてきて、仏壇に手を合わせることを必要最低限にして避けていたのが習慣化してしまったのだ。その間、欠かさず仏壇に向かい合っていたのは妻であった。だからよいというわけではないが。
 31歳が65歳になり、変わったのだろう。それが、たまたま父の死が契機となっただけのこと。実際、50歳を過ぎた頃から、朝のジョギングをしては神社で手を合わせて、いろいろな人たちのことをお願いしてきた。それが家族の健康であったり、試験の合格祈願だったり、ある時は、気になる職員のことをお願いすることもあった。
 夢や希望に向かって自分の力で突き進む自信みなぎる頃とは違う、「衰え」なのだろうか、年齢とともに、拝んだり祈ったりすることが身近になったような気がする。
 1月29日の朝、雪に覆われたお墓に花を手向け、妻と二人で拝んだ父の一周忌。


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グローバル化の進展? [教育]

 この頃、これまでフツウに使っていた「グローバル化の進展」という言葉が気になっている。これまでずうっと、素直に受け入れたまま、もう十数年になるだろう。だから、その進展に伴い求められる国際化や情報化への流れを当たり前ととらえてきたような気がする。
 こういうふうに考え始めたのも、よきにつけ悪しきにつけ、あのトランプさんのおかげ(せい)である。世界は、グローバル化によって労働は安きに流れ、かつての強国は錆びついていることを指摘した。一見、資本主義の末路にグローバル化を在らしめたのである。
 わたしも、いろいろな文章に、さも良きことのように、当然のことのように書いてきた。今、それは正しいことなのだろうかと振り返る。果たして、グローバル化は是か非か。そうまではいかなくとも、どうとらえるべきなのか。捉え方によっては教育の方向が変わっていくのではないか。果たして外国語として英語スタンダードなのか。今、世界が直面している「分断」や「不寛容」な世界も、その日影の部分としてみなければ読み解けないではないか。
 教育界では、今なお慣用句のように「グローバル化の進展に伴い」という言葉が目に付く。とても気になる。あなたたちはその進展についてどうとらえているのか。ひょっとしたら、突っかかりのないまま使っているのではないか。熟慮してもらいたい。
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分断の向こうに [教育]

 世界的な問題として「分断」が大きく浮上している。そして、その分断は、二極化された社会に「不寛容」を生み出している。
 例えば、300万円の車を高級と見る人がいれば、大衆車と見る人がいて、手の届かない高嶺の花と見る人がいる。それぞれの階層からあるものを見た時、同じものを見ていながら、とらえ方が違うのは当然である。ヒラリー派とトランプ派は、それぞれ考え方が次元的に違う人たちがそれぞれを支持したのだろう。とすれば、この分断は、アメリカに不寛容というきな臭い火種ができたと見てよいのかもしれない。
 ちょっと小さな話になる。かつて、文科省がコミュニティスクールを奨励したとき、今も同じらしいが、ことごとく逆らってきた記憶がある。簡単に言えば、いくら開かれた学校が標榜されようと、学校が外からこれ以上物言いされるのを当時は嫌っていたからである。
 ところがどうだろう。いじめ、自殺、体罰・・・とくれば、すべての責任を学校が背負わなければならないような風潮の中で、学校の外はすべてが正義派として物言いをするようになった。そろそろこの辺で、これらの問題は社会全体で社会に負ってもらうべきなのではないだろうか。そんな意味からも、今は、コミュニティ・スクールを進めるべきだと思う。
 変革の時代、大きな流れへの対応の仕方で、学校の立場が大きく変わる場合が考えられる。「学校」という文字で括れない「がっこう」と「ガッコウ」が生まれるようなものなのだが。教育行政は難しくなったのはその辺りに原因があるのかもしれない。社会を満足させることが難しくなり、信頼が揺らぎ、怒りや不満を募らせる人も出てくる。その中にはなんだか許しがたいことが起きたとでも言うように、大きな声をあげることで憂さを晴らしているような勘違いする人も出てくる。
 あるコトへの考え方の違いが、即分断となるわけではないだろう。違いを理解し合えれば寛容にもなれる。それには、今こそ、議論を尽くして結束する努力が求められている。

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