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たまさん [日記]

 たまさん、これは決して猫の話ではない。
 たまさんが死んで一週間になる。わたしが32歳の時に産みの母が亡くなり、以来、母と呼べる人は今日までの32年間たまさんであった。たまさんとは私の妻の母である。思い出を記しておこう。
 たまさんは美人であった。典型的な秋田美人である。米寿を迎えていた死に顔にも皺一つなかったし、白髪も少なく、髪は豊かだった。
 たまさんはお掃除名人であった。塵一つない部屋、ピカピカの鍋釜、ごみの始末から物の整頓まで徹底していた。
 たまさんに感謝したいことがある。
 わたしの初任地の分校にも、新庄のアパートにも、そして山大の宿舎、現在の家にも来てくれた。誰かが病気になったときが多かったが、産みの母が大病したときなど、困ったときはたまさんに助けを求めてきた。その間、衣食はもとより、お掃除名人は家の中をピカピカにしてくれた。
 一志と洋太、どれだけお世話になったことか。特に長男一志は、秋田に長期滞在することが多く、たまさんにはとても可愛がってもらった。
 秋田に行くと、海老フライ、豚カツ、鮪の刺身が必ず並んだ。海老フライは妻の好物で、豚カツはもちろんわたしである。鮪は赤身と決まっていた。脂身の方が好きなわたしより赤身を好む妻がこの場合だけは優先されたのだろう。たらふく食べた上に次の日の朝も食べれるほど、たくさん作ってくれた。
 たまさん、実は強い人だった。
 還暦を過ぎたあたりから、体のそっちこっちが悪くなり、薬の多用を心配したものだ。腰の手術、食道がんの時は、横浜のゴットハンドの名医まで行って手術を受けた。総じて振り返れば、生きることへの挑戦心は旺盛だった。
 柳は風に強いと言う。なよなよしながらも弱音を吐かず、やることは貫徹する本当は強い人だったのだと思う。
 たまさんに会いたかった。
 たまさんとは3年間会えなかった。どこの世にある話だろうか。自らを批正しないエゴが蔓延った。しかし、深淵なる流れの中に、澱のようなものが生まれ、それがトラウマと化し、憎しみと変わることがある。だとしても、少しでも自己を客観視できたなら、回避できたことである。人の感情というものは、すべて自分だけの支配下に置かれたとき暴走する。他からの言葉を断ち切り、内に籠った思考は迷路への道を進ませた。
 3年間、地団駄踏む月日が流れた。しかし、たまさんとの思い出は精緻化された。亡義父浩さんとともに会津や京都、三陸を旅したことが懐かしい。それでも一回ぐらいは海外に連れていきたかった。
 たまさんに感謝する。
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