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「知識」と「常識」 [教育]

 知識とは、「事実に基づく知」である。
 常識とは、何だろうか。「解釈」のようなものではないだろうか。だから、一人一人の解釈が違うということも当然起こりうるわけで、こうした主観の多数決(大団円)みたいなものを「常識」としているのではないだろうか。もっと大きく考えてみると、常識というものは、その時代、その国、その組織、・・・だけに通用するものだったに違いない。
 「特別の教科 道徳」が来年度から始まる。改正教育基本法第二条に「教育の目標」が細分化されて明示され、それが道徳のランクアップにつながったようにも見えるが、さして大きく変わったようには見えない。変わったのは教科になってやり方が変わった。評価もしかりである。
 各教科の評価対象は、大きな意味での「知識」である。すると、道徳は「常識(解釈)」を評価するのか?
 道徳は、もとより模範解答はない。自分とは違う人間が世の中に存在していること(多様性)を認めていくことを学んでいく時間であるととらえることもできる。
 それでも「分からないことが分かるようになり、できなかったことができるようになる」という教科の特質に共通するものが道徳にもあるのだと考えている。この辺が突き詰められていないと「特別の教科 道徳」は、内心の強要に発展する恐れさえある。
 「へえーこんな考えもあるのか」というような「気づき」、「A君の言葉に、あのジャンバルジャンのように、立ち尽くすだけでした」などの「ふり返り」などが、評価として研究されていく必要があるのではないだろうか。
 「嘘」は自分の行為としてはよくない。だが、相手を考えた上での「嘘」というのもある。
 「普段噓つきの子ども」が嘘を否定し、「いつもは正直な子ども」が嘘を許す場合だってある。
 間違いなく「正解」はなく、「その子在ってのその応え」があるのだから、求められるのはそれを理解できる先生ということになる。
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