So-net無料ブログ作成

80年も前のキョウボウ罪? [教育]

 “城南練兵場を出はずれると原っぱの長い一本道が西の山裾に延びていた。一本道が「く」の字の形に曲り、そこに橋があり溝川が流れていた。橋を渡ってしばらく行くと二階建の木造校舎があり、校門に「山形県女子師範学校代用附属飯塚小学校」と書いた陶板が門柱にはめてあった。”
 『附小百年』に西村直次氏はこう記す。直次先生は、昭和2~6年の間ここで教鞭を執る。正確には昭和6年12月4日午前1時20分までと言ったほうがよかろう。
 “昭和6年9月満州事変が勃発した。・・・・治安維持法がきびしく運用された。・・・・私はもう起床し、児童の綴り方指導のためガリ版を切っていた。玄関の戸を敲くので、鍵を開けると、県特高課長曽根忠一指揮の警官9名がドヤドヤと宿直室に踏み込んだ。私は山形県における赤化教員第一号として検挙されたのである。”
 直次先生は、その年の12月31日付で東置賜郡の小松小学校に転勤を命じられる。先生は配流の人の思いで飯塚校を去っている。
 後年その直次先生は、茂吉に蕨を送る。その礼状を額縁に収めたものを直次氏の息子である西村岑一氏から、わたしはもらい受けている。その礼状は山形四小の校長室に置いてある。
 共謀罪の国会審議が始まった。多くの疑義が醸し出されているが、情報が入ってこない。「丁寧な説明で理解を得たい」という話は何処に行ったのだろう。今日こんな話を持ち出したのは他でもない。ごく身近な所でも教育とて侵害される危険性があるコトをわたしたちは忘れてはならない。
nice!(0) 

nice! 0